日本における混浴の記録は、712年(養老5年)に成立した常陸風土記に始まるとされています。733年(天平5年)に成立した出雲風土記によると、温泉には男も女も老人も子どもも、昼も夜も途切れることなく行列して行き来する、と書かれています。川の辺りに出湯した天然の温泉が溜まってできた野天風呂であり、男湯・女湯という概念はなく、混浴は、自然発生的にできたものです。
風土記によると、温泉に浸かると、心身がくつろぎ、綺麗な体になり、病気もすっかり治ることから、毎日賑わい、宴会も楽しまれています。また、温泉では川あみという歌垣も行われ、男女が一緒に飲食し、歌を交わしながら気のあった相手と性的な関係を結ぶこともあったようです。
ちなみに、歌垣とは、特定の日時・場所に老若男女が集会し、共同飲食しながら歌を掛け合う行事であり、互いに求愛歌を掛け合いながら、恋愛関係になるというものです。性の開放を目的とした野遊びや、未婚者による求婚行事という性格のイベントで、現在の合コンのようなものです。
正史とされる古事記や日本書紀では、川原などで水によって体を清める禊ぎを行い神を生んだとされており、これは、水辺で女性と次々に性的関係を結び、相手の女性が出産したことを表していると思われます。
神功皇后が祀られている大阪の住吉大社では、明治時代の終わりまで、祭りの神輿渡御で、数百人の男女が押し合いへし合いで海水を浴びるというもので、1911年(明治44年)7月13日付の大阪朝日新聞には「官許の男女混浴場」という見出しで、うら若き女性も丸裸で、ドブをすくい取って、住吉さまの御湯と唱え、顔・腹・背・股の下まで塗り立てていると書かれています。江戸時代までは海中から温泉が湧き出ていたようです。
長野県の諏訪温泉、群馬県の草津温泉、愛媛県の道後温泉は、縄文時代から湧き出ており、遺跡から、当時の縄文人によって活用されていたことが確認されています。群馬県の万座温泉や伊香保温泉は、弥生時代から古墳時代に始まったと言われています。もともと人々は全裸で生活していたのであり、温泉に入るときも当然全裸で混浴だったでしょう。
奈良時代に入ると、仏教で湯の効能が説かれ、東大寺や興福寺などの大寺院では、布教の一環として、庶民に風呂を提供する「功徳湯」という活動が行われています。鉄の湯釜の下から直接焚いて入浴する方式で、湯釜は一つしかなかったことから、混浴であったと推測できます。また、光明皇后の千人施浴の絵図では、女官が男性の体を洗っていることからも、混浴であったと考えられます。
平安京では、内裏に天皇が入浴するための御湯殿が設けられ、毎朝天皇が湯帷子(ゆかたびら:浴衣の原型)を身につけて浴槽に入ると、薄着の女官が垢擦りの奉仕をするとされています。平安時代後期になると、貴族の屋敷にも湯殿が設けられ、吾妻鏡には、一人で入浴する殿様と世話をする湯殿付きの女房との間で性的な関係があったとうかがえる記述もあります。
町湯の第1号は、藤原為隆の永昌記(1110年(天仁3年)6月10日)によると、京の一条にあった、寺院が経営する菖蒲湯を専門とする湯屋であるという説があります。この湯屋は、藤原宗忠の中右記(1129年(大治4年)2月10日の条)にも記述されています。銭湯という言葉の初出は、京都・祇園社の祇園執行日記(1352年(正平7年)1月の条)に、岩愛寺の銭湯風呂の記述があります。鎌倉時代から室町時代になると、温泉地で行われていた混浴が町湯にも広がり、混浴が一般化されています。
また、1191年(建久2年)には、摂津の有馬温泉に湯女(ゆな)という温泉客相手に性的サービスも行う女性が登場しています。湯女とは、入浴する客の世話をする女性であり、それが遊女としての役割(売春)も行っています。有馬温泉は、遊郭の第1号とされています。
温泉地では、泉源から湯船まで温泉を引いた共同浴場もできてきますが、まだ、男湯と女湯の区別もなく、日本の温泉や公衆浴場は、江戸時代までは基本的に混浴でした。江戸時代には、大都市で銭湯が大衆化し、垢すりや髪すきのサービスを湯女(ゆな)に行わせる湯女風呂などが増加しました。売春などの風紀の取締のため、江戸の銭湯では男女混浴禁止令が出されましたが、依然として混浴が主流でした。
1853年に来日したペリーの「日本遠征記」に「男も女も赤裸々な裸体をなんとも思わず、互いに入り乱れて混浴しているのを見ると、淫蕩な人民である」と記されたことから、明治新政府は、欧米への体裁を気にし、混浴禁止令を出しました。しかし、なかなか改まらないため、混浴禁止令はたびたび出されています。完全になくなったのは明治末期になってからでした。それでもなお、地方の温泉地などの多くでは混浴が当たり前という時代が昭和30年代まで続きました。
高度成長期以後、都市部の住民が地方の温泉地を訪れる機会が増え、混浴という風習を容認できない観光客が増加したため、多くの旅館やホテルがそのニーズに応えるべく、浴場の男女別化に取り組んだ結果として、昭和40年代以降、混浴は減少の一途をたどることとなりました。 浴場や入浴施設の衛生検査権限をもつ保健所が、新規の混浴施設建設に対して衛生検査済証を発行しないことも、混浴の減少に拍車をかける一因となっています。なお、一部の温泉地では、今日でも混浴が残っています。
次回は、混浴禁止令について、書いてみたいと思います。