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宗教においては、性を戒める戒律があります。キリスト教では、モーゼの十戒に「姦淫してはならない」とあり、不道徳な性行為、例えば不倫、未婚者の性交、売春、ポルノ、同性愛、自慰、乱交、近親姦、小児性愛などが禁止されています。神父などのカトリックの聖職者は、独身であることが求められています。
仏教では、出家者(僧侶)は、戒律によりあらゆる性的行為(異性交際、同性愛、獣姦、手淫、口淫、肛門性交、女性との接触)が戒められています。在家信者においても、五戒に「不邪淫戒」があり、不倫が戒められているほか、できるだけ性行為は慎むこととされていました。仏教の開祖である釈迦は煩悩を断ち切って悟りを開いたので、釈迦は、修行をする僧に対して、「男は女に触れてはならない」という戒律を定めています。
しかし、いくら戒律があっても、守るのは難しいようです。「日本霊異記」には、称徳天皇(女性)が僧・道鏡を寵愛し枕を重ねた、と書かれており、「今昔物語集」には、僧・浄蔵は、加持祈祷によって近江守の美しい娘の病を癒やしたあと、欲望を抱き、娘も応じて二人は結ばれた、と書かれています。
僧侶は女性との性行為を絶たねばならないとされており、戒律を破り女性と性的関係を持つことを「女犯(にょぼん)」と言って、犯罪とされていました。しかし、取り締まりは世情に依ったり、解釈によって妻帯して俗人と変わらない生活をする僧侶は多かったようです。例えば、臨済宗の僧・一休宗純は、飲酒・肉食(にくじき)をしたり、寺で女性と同棲していますが、信者から非難はされていません。
なお、浄土真宗は、僧侶に肉食妻帯が許されています。開祖の親鸞が、すべての人が煩悩あるがままで本当に救われるということを明らかにするために、僧侶として初めて公式に結婚し、庶民と同じように魚や肉を食べたということです。
明治維新にあたって、国家神道政策の影響もあり、1872年(明治5年)に太政官布告が発布されて、僧侶の肉食妻帯は自由であるとされました。釈迦の定めた戒律を守っても良さそうなものですが、僧侶といえども性欲を制御することは難しく、また壇信徒が安定的な世襲を期待したこともあって、今では、僧侶の妻帯は当然のこととされています。
キリスト教においては、最初の人間であるアダムとエバが神の命に逆らい「禁じられた木の実」を食べてしまいます。つまり、性行為に及んだとされています。これを原罪としてすべての人間が生まれながらにして罪を負うという教義が生まれました。性行為自体が原罪と結びつけられ、罪深いものと見なされて、禁欲が求められるようになりました。
イスラム教では神のことを「アッラー」と言いますが、「唯一絶対神」という意味であって、アッラーという名の神がいるわけではありません。ユダヤ教の唯一の神である「エホバ(ヤハウェ)」の言葉は「預言者」という人間を通じる形で人々に伝えられています。
イスラム教では、旧約聖書の預言者と新約聖書のキリストを五大預言者(ノア、アブラハム、モーゼ、イエス、ムハンマド)とし、ムハンマドこそ神の言葉を正しく伝えた最後の預言者であるとしています。ムハンマドが生存中は口伝でしたが、亡くなった後に、神の啓示が正しく伝えられるよう、「コーラン」という本の形にまとめられました。
ムハンマドは、性行為についても、詳しく述べています。禁欲はアッラーの教えに反するとか、性交は好きな体位ですればよい、剃毛をした方がよいとか。性に関する預言が多いのは、ムハンマドは、性欲が強く、女性を見ると性の衝動を感じやすかったからだとか。
性行為に価値を見いだす宗教もあります。老子を祖とする道教は、養生術の一つに「房中術」があります。これは、男女の和合を通して気を養うというものです。気は生命の原動力であるとされており、修行者は性行為の際、射精をせずに、気と混じり合った精液を臍下丹田から頭へと体内を循環させることで、脳の再活性化が実現できるというものです。
房中術は、衝動があってもみだりに性交せず、性交する場合にあっては、最高潮の快楽に達しても漏らしてはならない。このようにすれば、精液と真の気とは蓄積され、百歳になっても肉体は衰えるどころか強健になるだろう、と述べています。性交中に射精が起きそうだと感じたら、左手の人差し指と中指で会陰のツボを強く押さえ、深呼吸をしながら歯ぎしりをすると、射精が止まるそうです。なお、道教の性の技法は、インドにおける左道タントリズムが開発したヨガの方法の影響を受けていると言われています。
仏教においても、密教には性を肯定する思想があります。密教経典である「理趣経」には「性的な快楽は本来清らかなものであり、菩薩の境地である」など、性に対する欲望や性の快楽が全面的に肯定されています。なお、最澄は空海が唐から持ち帰った理趣経の解説書の貸出を所望しましたが、空海はこれを拒んでいます。社会道徳的な観点から拒んだとか、修行に依らず書物で学ぼうとする態度に反感を待ったからとか、諸説あります。
インドの後期密教の経典である「秘密集会(しゅうえ)タントラ」には、社会的な倫理に反するような事柄を実践することがむしろ悟りに結びつくとされています。チベット仏教では、男尊が女尊を抱き交合している「歓喜仏」が釈迦の姿であり、悟りの境地が示されている、とされています。
日本には、かつて真言立川流という一派があり、密教の奥義を、男女の性的交わりの中に認め、交会の法悦こそ密教が究極の目的とする即身成仏の境地である、と唱えています。
次回は、カトリック教会の聖職者による性的虐待について、書いてみたいと思います。